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1944年8月5日の脱走中に殺された日本人捕虜はカウラ墓地に埋葬されました。カウラの帰還兵が思いやりと和解の気持ちで1967年まで墓地の世話をしていました。これがカウラと日本の人々の間に芽生えた長期にわたる友情の始まりとなったのです。

1963年に日本政府は戦没者の本国送還を検討していました。しかしながら、お墓の面倒をみていたカウラの帰還兵の善意に感銘を受け、日本人戦没者墓地をカウラに建立することを提案したのです。

一般市民も軍人も同様に、戦争中に亡くなった他の全ての日本人の遺体はカウラに運ばれました。それ以来、第二次世界によるその他の日本人の遺体は同墓地に埋葬されたのです。

同墓地は世界でも唯一の日本人戦没者墓地なので、戦死者に敬意を表すために多数の日本人がカウラへ巡礼にやってきます。






オーストラリアの軍人による和解の行為は、訪問者および住民に絶えることのない遺産を残しました。

カウラ・ビジターセンターの劇場では、その悲劇的な事件の話を語り、戦没者墓地と捕虜収容所の跡地は亡くなった方々にとって耐えることのない慰霊の地となっています。これらの跡地の標識は日本語で書かれています。

賞を獲得した日本庭園と文化センターは、東京都庁の支援を得て1979年に建設されたものです。5ヘクタールの伝統的な庭園は、歴史へのすばらしい洞察と同庭園の意義が日本語で説明されていますので、ご自分で散策していただけます。

シビック広場に設置されていた世界平和の鐘は、1992年、長年にわたる世界平和および国際理解への貢献を称え、カウラへ授与されました。

その他、和解を思い出させるものとして、さくらアベニュー、平和の道、東京の成蹊高等学校とカウラ・ハイスクールの35年にわたる交流プログラム、コールファーマーによる隔年の訪問およびその他多数の訪問者と交流プログラムなどが挙げられます。



カウラへの行き方

シドニーの西320キロに位置しており、車さえあればシドニーからブルーマウンテンを超えて、バサースト経由
ミッド・ウエスタン・ハイウェイで約4時間半。実際、私も運転したが 交通量の少ない走りやすい道です。
ところが、車がないとかなり行きにくい。シドニーから、一日に数本の列車でバサーストかクーサマンドウラまで出て、そこからバスを利用。所有時間は約5,6時間。シドニー中央駅では列車代+バス代の割引切符も販売している。(旅大陸オーストラリア 伊藤伸平著書より)

日本人戦没者共同墓地

1941年、カウラの町はずれに捕虜収容所が設立されました。
収容所は第12捕虜収容所として知られ、将校および兵隊を含む1,104人の日本人捕虜が収容されていました。

超満員となったため、一等兵以下の日本兵全員をヘイにある捕虜収容所に移送することが1944年8月4日に決定されました。分けられることを嫌がった捕虜達は何度も緊急会議を開き、全員一致で収容所から脱出する事を企てました。

1944年8月5日午前1時50分に脱走が開始されました。事前に予定されていた集合ラッパの合図に応えて、日本人捕虜は小屋の戸を開き、半狂乱で境界柵へと突進しました。合計378人が外側の境界線鉄条網をくぐり抜けて脱出しました。

その後9日間の間に、オーストラリア軍の守備兵が、カウラから約15マイル離れた処で、334人の脱出した日本兵を再び捕虜にしました。数人の日本兵は自殺しました。

全日本人死傷者数は、将校が1人死亡、230人の兵隊が死亡または負傷により死亡、1人の将校が負傷、107人の兵隊が負傷しました。

絶えざる遺産

カウラ日本兵集団脱走事件