■カウラ市の紹介
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 オーストラリアのカウラ市をご存知ですか?
        (カウラ市紹介記事より)


 オーストラリアのシドニーから330キロ西に位置するカウラという町の一角に小さな日本の領土が在るのをご存知ですか?それはオーストラリア人戦没者霊園に隣接している日本人戦没者霊園です。1963年オーストラリア連邦政府は、この区域を正式に日本の領土と認めましたが、ここに至るまでには辛く痛ましい経緯がありました。
 人口8500人のカウラ市と日本の運命的な出会いは1942年に始まりました。第2次世界大戦当時オーストラリア政府は、イギリス政府の申し入れに従い、カウラ市に捕虜収容所を設置しました。1941年5月から12月にかけてドイツ兵捕虜及びイタリア兵捕虜が収容されていました。同年12月の太平洋戦争勃発により、1942年初頭より日本軍捕虜が少数ながら収容され始めたのが、カウラと日本人の接点の始まりでした。その後、ガダルカナル、ニューギニア戦線の激化に伴い日本軍捕虜の数が増加、1944年8月には約2000名の超える将兵捕虜が、カウラに収容されていました。豪州軍監視兵、カウラ市民と日本軍捕虜の関係は、表面的には戦時下と思えないほど、極めて友好的であったようです。(展示館には、草野球を楽しんでいる日本兵の写真などもあります。食事も米や魚など日本人にあわせた食料を提供してくれたようです。)
 しかし、捕虜将兵の間には、戦陣訓等による、慮因の身分に対する屈折した感情が多くあったようです。軍人として叩き込まれた「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉通り、1944年8月5日未明収容中の1000余名の捕虜が、死に物狂いで脱走を企てたのです。取る武器もなく、素手で機関銃の待つ監視塔に殺到、自殺目的の突撃を敢行、悲劇的な暴走脱柵を企て、豪州犠牲者4名に対し、日本側237名の犠牲者を出して終息した事件が、戦後も永い間、豪州政府に極秘扱いされていた有名なカウラ事件で、これが今日のカウラ市と日本の関係を決定付けた重要な点になっております。



当時の様子を伝える写真展示
捕虜収容所の跡地
カウラ市内にあるサクラ通り
日本人戦没者慰霊碑
日本人墓地
カウラ日本庭園

 日本人戦没者墓地と日本庭園
       (カウラ市紹介記事より)


 戦後まもなく、カウラ市民の発意と豪州政府の好意により、カウラ墓地内、市民墓地とオーストラリア軍人墓地との間に、日本人戦没者墓地を設置することが決められ、事件の犠牲者と、収容中の死亡将兵と、オーストラリア各地で死亡し、分散埋葬されていた、戦時収容中の日系民間人、オーストラリア大陸内の空戦闘で戦死した、日本軍将兵等500余人の遺体を、この墓地に集中埋葬し、豪州連邦政府軍事基地管理委員会と、カウラ市民の手で手厚く管理され、今日に至っております。しかし残念な事に、墓地に眠っている人の中に、生前捕虜になったことを恥じて、偽名を使っていたために、本人の身元や肉親がわからない人も、少なくないといわれております。日豪関係が特に厳しかった時期に、市民の善意として、この日本人墓地の設置に踏切り、市有墓地を日本に寄贈し、豪州軍基地と分け隔てなく、美しく清潔に手入れされたこの墓地に、静かに眠る同胞に国境を越えてよせられる、カウラ市民の温情はヒューマニティーにあふれ、訪れる人に深い感動を与えております。
 この日本人墓地設置を機縁に、市民有志による、日豪関係修復の機運が高まるとともに、両国永遠の平和と友好のシンボルとして、日本庭園の建設運動に発展しました。市民運動から発展したこの造園計画は、日豪両国政府、民間有志団体の熱意と惜しみない協力援助の数々による第1期工事の完成、又最終的には、NSW州と姉妹都市締結による、東京都民より贈り物としての寄付金により、第2期工事が完成しました。人口の少ないカウラ市にとって、この造園資金は市の財政規模から推して、天文学的金額であったはずで、人々の善意のみに頼るこの計画は、当初は無謀なものであったと思われます。しかしカウラ市民の熱意とこれまで示してきた実績は、日豪両国政府民間団体の共感を呼び、日本庭園設立の支持者がまし、数多くの人々の善意と支援により完成をみました。この日本庭園の完成により、日本人戦没者霊園と共にカウラ市の名は、日豪親善のシンボルとしての地位を確かなものにしました。

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