■直江津における日豪交流

 直江津捕虜収容所

 日本軍は、太平洋戦争開始(1941年)後、5ヶ月でアジア各地の連合軍約26万人を捕虜にし、うち3万2千人を日本国内91箇所の捕虜収容所に収容して、工場や炭鉱などで働かせました。
 新潟の直江津では、開戦の翌年(1942年)12月10日、古い塩の倉庫を改造した捕虜収容所に300人のオーストラリア兵捕虜を収容しました。
 その冬、強い寒波や飢えで病人が続出しましたが、戦局が悪化し、軍は工場に兵器増産を命じました。そのため、1943年3月から翌年の2月にかけて、貧弱な医療も関係して、60人の捕虜が病死したのです。
 その後、捕虜の労働や施設を改善し、英・米・蘭などの捕虜を加え、700人余りを収容しました。
 終戦後、東京裁判で当時の収容所職員15人がその責任を問われ、そのうちの8人が悲痛な遺書を残して刑死しました。戦後(1953年)政府はこれを公務上の死と認め、年金など戦死者と同等に待遇しました。
 この直江津には、戦争がもたらした、こんなむごく悲しい歴史があったのです。






展示館
直江津捕虜収容所復元図





平和記念公園および展示館
付近の地図

 直江津・平和記念公園


 戦後、捕虜収容所の悲劇は市民から忘れられていました。
 オーストラリア元捕虜兵との交流は、1978年、一通の手紙がもとで英会話サークルとの文通が始まりました。
 1988年、Tグリン神父がオーストラリア元捕虜兵と一緒に直江津を訪問し、元捕虜兵が故人をしのぶ銘版を当時の市長に託しました。
 その時の日本人参加者は、オーストラリアのカウラ捕虜収容所から自殺的出撃して戦士した日本兵と犠牲になったオーストラリアの警備兵を弔い、毎年慰霊祭を行っているカウラ市民のことを初めて知りました。
 6年後、その参加者と有志が「平和友好像を建てる会」を組織して募金活動を始めました。多くの障害もありましたが、市民の間に賛同の輪が広がり、元捕虜の一部と日本の犠牲者遺族との和解が成立し、両者の除幕式参加が決定しました。
 1995年10月8日、市の協力もあり、両国関係者と多くの市民が参加。元捕虜代表ミューディーさんは「心が愛で満たされていれば憎しみの余地はありません」と挨拶し、二つの銘板と平和友好像の除幕式が挙行されました。このようにしてこの日、ここに平和記念公園が完成したのです。

            (上越日豪協会作成パンフレットより)


 2005年4月シドニー・ベースボール・チームが直江津訪問

 彼らは毎年、3月に来日して甲子園を観戦した後、全国の高校生との交流試合をしている。
 直江津の事を知った、団長ヒルズ氏が チームの直江津訪問を希望。上越日豪交流協会と直江津高校、直江津高校OB会の協力を得て、直江津訪問が実現した。

平和記念公園で慰霊祭

選手は市民の家にホームスティ

直江津高校との交流試合


 2006年4月シドニーベースボールチームが2度目の直江津訪問

今回は 雨の為、展示館内での慰霊祭を行いました。

雨の為、直江津高校の校内でのトレーニング
午後は、上越高校の体育館でバッティングの練習を行いました。

上越日豪交流協会主催のパーティー

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